Creator's Value クリエイターズ・バリュー

SEIBUNDO SHINKOSYA PRESENTS

本城 直季

本城 直季Photographer

Honjyo Naoki

 

●PROFILE
1978年 東京生まれ
2002年 東京工芸大学芸術学部写真学科卒業
2004年 東京工芸大学大学院卒業
2006年 木村伊兵衛写真賞
写真集として『Small Planet』(リトルモア)、『Treasure Box』講談社がある。

どんな時代になっても、プロでなければ撮れない領域がある。

どんな時代になっても、
プロでなければ撮れない領域がある。

写真よりも映画が好きで、大学4年まで進路が定まらなかったという本城直季さん。写真を仕事にしようと決意するまでは、ふつうに就職しようと思っていたそう。受賞をきっかけにオファーが続いて多忙な毎日を送りながらも、仲間とスタジオをシェアするなど、ワークスタイルは意外と堅実。時代を見据えた働き方などを語っていただいた。
(聞き手/クリエイターズ・バリュー編集部 文・中山薫)

模索し続けた学生時代

●本城さんは東京の生まれなんですね。

本城:はい、目白で生まれ育ちました。公園や道端で友達と空き缶を蹴ったりして、外で遊ぶのが好きな子どもでした。
中学時代から映画にはまって、「ニューシネマ・パラダイス」を見たのがきっかけで映画を撮ってみたいと思い、東京工芸大学を受験しました。ところが、映像のほうは落ちてしまって、いっしょに受けていた写真のほうに入りました。

高校時代はマンガに夢中でした。本を読むのは昔から好きで、最近は新書をよく読んでいます。
旅行も好きです。大学2年の時、バックパックで海外旅行をするのが流行って、僕もインドに1カ月くらい行っていたことがあります。その時は撮影目的じゃなくて、ただ異文化に触れるのが楽しくて。英語がしゃべれなくてもなんとかなるというマインドで、いろいろな国に出かけます。今では撮影のためにアフリカに行くようなこともしています。

●写真はたまたま始めたということなんでしょうか。

本城:そうなんです。入学した時はカメラさえ持っていませんでした。写真学科なので買わなくてはいけなかったんですが、友達の一眼レフ(ニコンのFE)を借りて撮っていました。まだフィルムを使っていた時代です。
当時、僕が通っていた大学では機材を貸してもらえたので、それでも困ることはありませんでした。暗室も24時間使わせてもらえましたし、欲しい写真集があれば全部買ってもらえて。学ぼうと思えばいくらでも吸収できる、やりたいことに一気にのめり込めるという環境だったんです。

●そういう環境のなかで、写真をやろうと。

本城:いえ、すぐに写真をやりたいとは思えませんでした。当時、国内でカッコいいといわれていた写真家の作品を見ても僕には響くものがなかったんです。
ただ、映像は違うなということには早い段階で気づきました。写真学科にも映像の授業があって、やってみたらなんだか違うなと。映像の制作って、ディレクターのように仕切る人が上にいて、その人のもとにみんなで協力し合ってやるんですよね。なかには、モチベーションが低くて“やらされてる感”が漂ってる人もいたりする。そういう関係性は、僕はあまり好きじゃないなという感覚がありました。だったら一人でやる写真のほうが、自分の表現したいことがダイレクトに伝えられるかなと。

でもまだ漠然としていて、ふつうに就職活動をしました。よくわからないまま、世間一般に知られているような電通、博報堂、東北新社のようなところを受けにいって、現実を知って打ちのめされましたね(笑)。

●写真でやっていこうと思ったのは、いつ頃なんでしょうか。

本城:大学4年の時です。就職活動に前後して、海外のいろいろな写真集を見たり、展覧会を見にいくようになり、写真の面白さに気づき始めたんです。なかでも惹かれたのがニューカラー(※)といわれている人たちの作風です。アンドレアス・グルスキー、日本の写真家ならホンマタカシさんとか。ピントが全然合っていなかったり、絵画風の色調だったり。もともと風景写真が好きなのと、精密に写っている感じが新鮮でした。
※ニューカラー
「決定的瞬間」を追わず、目の前の何げない日常を淡々とカラー写真に収める作風。1970年に発表された作品の数々が写真界に多大な影響を与えた。

僕は映画のなかでもドキュメンタリー映画のような、社会を反映した作品が好きだったんですが、それを写真で表現できるかもしれないと思いました。といっても新聞のような報道写真じゃなくて、ニューカラーのような、じんわり、じっくりとリアリティを追求するような方向です。

ニューカラーの作風は当時、僕らのような学生のあいだで人気がありました。それが今になって、世の中で人気になっているんです。大学ではいろいろな情報を真っ先に得ることができたので、トレンドというか時代の流れみたいなものは把握しやすかったですね。

奇跡的に撮れた1枚からプロの道へ

●なんとなく写真だとわかったところで、大学院へ進んだんですね。 

本城:はい。やりたいことに気づくのが遅かったので、社会に出る前に自分の作品を撮ろうと思って、大学院に進みました。その時は4×5やポラロイドを使って、写真のブックをたくさんつくりました。ポラロイド写真はピントが少しぼやけたり、色が淡く出たりするので絵になりやすく、グループ展で特に人気がありました。

ミニチュア写真を撮り始めたのも、この頃から。4×5を使うと得られる効果で、一般的な手法の応用ですが、どんな撮り方をするとどんな効果が得られるのか、模索するうちに奇跡的な1枚が撮れたんです。構図もロケーションも良くて、完全にミニチュアに見えるものが撮れた。

この手法を使って自分なりの表現ができたらいいなと思い、1年かけて撮り続けた結果、富士フイルムのフォトコンテストで奨励賞をいただきました。それが思っていた以上に大絶賛されて。まだまだ自分が撮りたいものとのギャップがあったので、ものすごく戸惑いました。

ただ、この受賞がきっかけで『コマーシャル・フォト』の編集長をしている川村民子さんと知り合い、作品を売り込みにいったら載せてもらうことができました。たまたま同じページに水野学さんが求人広告を出していて、僕の作品を見て連絡をくださったんです。それで、プロとして初めての仕事をもらうことができました。その後は水野さんから、わらしべ長者的にいろいろな人を紹介してもらって仕事の幅が広がりました。

●本城さんのミニチュア写真は、本城さんならではの魅力がありますね。

本城:ミニチュアの作品が自分らしい表現にオーバーラップし始めたのは、わりと最近のことで、撮り始めて6、7年くらいたってからですね。木村伊兵衛賞(※)を受賞して、写真集を出した後なんです。
僕が撮りたいミニチュア写真は、平面に見えて立体を意識した構図になっています。モチーフはもちろん、天気、時間帯、光、角度、距離感、高さ。自分のなかでこだわりがあって、簡単に撮れるものではないんです。
※木村伊兵衛賞
朝日新聞社が創設した写真賞。プロ・アマ・年齢を問わず、毎年1月?12月までに雑誌・写真集・写真展などに発表された作品から、優れた成果をあげた新人に贈られる。「写真の芥川賞」ともいわれる。

初めのうちは、撮ってみて「何か違う」の繰り返しでした。「違う」と思ったものを排除していって、イメージに近いものが残っていくという感じです。そのうちに、思ったものが撮れる条件というのが自分なりに見えてきて、だんだん撮れるようになってきました。

『small planet』のプールの写真は、自分でもかなり気に入っています。人がまばらにいることによって、個々が立って1つひとつのドラマが見えてくる。あんなふうに人がまばらにいる空間って、探すとなかなか見つからないんですよ。

アンドレアス・グルスキーのように客観的な目線で撮るのが好きで、アングルとしては俯瞰で観察することが多いですね。『LIGHT HOUSE』も4×5を使って映画のセットのような、ジオラマっぽい雰囲気を出しています。映画が好きなので、映像の世界観も見え隠れしていると思います。

人とのつながりを基盤に、プロらしい仕事を続ける

●スタジオを兼ねた事務所をお持ちなのはいいですね。

本城:今はカメラマンが独立してやっていくのが難しい時代だと思います。独立して順調にやれていても、いつまでそれが続くかわかりません。
僕がこの事務所を持ったのは木村伊兵衛写真賞受賞の3年後で、当初から大学の同級生・後輩とシェアするかたちで、8年間ずっと同じメンバーでやっています。
スタジオ・機材などの設備や、家賃・光熱費といった費用をシェアできることは安心につながります。技術的なことを補い合えるメリットもあります。同じ場所でやっているから、手の空いている人が手伝うというしくみで、アシスタントはいません。

僕は今、仕事が7、作品が3くらいの割合です。仕事では広告や雑誌の仕事を中心に、人物も撮っています。手が空いている時は他のメンバーの仕事を手伝うこともあるし、仕事をお互いにシェアすることもありますよ。

昔と違って、ワークスタイルがミニマル(※)になってきていると思います。スタジオにしても、中途半端な規模のところは厳しくなっていくんじゃないでしょうか。よほど大規模か、僕らのような小回りのきくところでないと難しいと思います。
(※)「最小限の」という意味。

移動手段にしても、車ではなく今はバイクの時代。特に駆け出しのうちは、原付きバイクが絶対に必要です。打ち合わせ、ロケハン、撮影、現像と移動する時に、重い機材を抱えて電車に乗るのはたいへんです。バイクなら機材を積んで、都心を30分以内で移動できます。車のような維持費もかからないので、ちょっと大きめの原付きバイクは必須です。

クライアントも、今後はスタジオの費用を出すゆとりがなくなるかもしれないので、僕らのような設備を持って、シェアというかたちで運営するスタイルは時代に合っていると思っています。
もちろん、全員が駆け出しのうちは仕事が少なくてたいへんでした。運営が安定し始めたのは最近のことです。それぞれが個性的なスキルを持ったカメラマンのいるスタジオとして、これからもみんなでやっていけたらいいと思っています。

●仲がよくて楽しそうです。最後に、カメラマンを目指す人へのアドバイスをお願いします。

本城:今は誰でも写真が撮れる時代だし、ミラーレスも手頃な価格で買えるようになってきました。便利になるほど仕事の全体量は減るので、カメラマンという仕事がいつまで続けられるのか、そういう危機感もあります。でも、プロじゃないと撮れない領域というのがあるし、プロじゃないとなかなかやらないこともありますよね。このあいだ、アフリカに行ってミニチュア写真を撮ってきましたが、素人ではなかなかそこまでやりません。 

オリジナリティのある表現や、テクニカルな領域のものはこれからも残っていくと思います。とはいえ、個性を出しすぎてもダメ。作品と同じ個性を仕事で出せるわけではなく、クライアントの要望に柔軟に対応できるようでないいけません。
それと、プロとして仕事をしていて実感するのは、結局は人とのつながりなんだということ。僕は最近、自分の作風ではなく、人とのつながりで仕事ができるようになって、ある意味で少しホッとしています。

この世界は、カメラマンとして「使う・使わない」がはっきりしているので、1回のオファーで終わらないように、毎回の仕事をしっかりすることが大切です。1回仕事をして気に入ってもらえると、何度もオファーがもらえます。まわりを見ていてもそういう人が多いです。1回で終わってしまった時は、「ダメだったんだ」と落ち込まないで、「相手が期待したほどじゃなかった。ふつうだったんだ」くらいに捉えて、次のチャンスを生かせばいい。
作品は作品として撮り続けながら、仕事も大事にして、楽しみながら続けていけたらいいと思います。

 

ページの先頭へ