Creator's Value クリエイターズ・バリュー

SEIBUNDO SHINKOSYA PRESENTS

甲谷 一

甲谷 一art director

Kabutoya Hajime

●PROFILE
1973年東京生まれ。2006年有限会社Happy and Happy設立。独自性の高いタイポグラフィを活かしたデザインを駆使し、ロゴやブックデザイン、広告等のデザイン全般を手掛ける。また、これまでに約40書体の欧文フォント制作を行っている。
著書に『たのしいロゴづくり』『きれいな欧文書体とデザイン』(ビー・エヌ・エヌ新社)
『ABC案のレイアウト』『デザインの組み方』(誠文堂新光社)『ハイグレード・デザインフォント』(エムディエヌコーポレーション)がある。

デザイナーですから、かっこいいものには当然惹かれます。
でも、かっこいいことにこだわるよりも、伝える内容に合わせ、時には親しみやすく、時には遊び心を加えて、魅力あるデザインをつくりたいんです。

(聞き手 クリエイターズ・バリュー編集部 文 鈴木理恵子)

エアブラシを使いたくて、デザイン専門学校へ

●どんな少年時代を過ごしましたか?

甲谷:小学生の頃は軟式野球、中学校では3年間陸上部とスポーツに明け暮れる日々でした。
特に将来なりたい職種や、やりたいことがなくて、小学校の卒業文集の「将来の夢」というテーマにも、「ない」みたいなことを書いた記憶があります。

絵を描くのは好きだけれど上手いわけではなく、美術の授業でもそこそこの評価はされても「すごい!」という人ではなかった。初めて油絵を描いたのも高校3年の美術の授業で、当時はデザインの意味どころか、グラフィックデザイン自体も知りませんでした。

僕は天邪鬼なんですね。中学の時は皆まじめに勉強するので、自分はまったく勉強せず落ちこぼれ。レベルの高い高校には入れなかった。でも高校では進学校ではなかったからか、周りに真剣に勉強するムードがなかったので、逆にまじめに勉強して成績優秀でした。進学にも興味がなくて、高校を卒業したら就職を希望。進路相談で、成績も良かったせいか、やりたいことを見つけて進学したほうがいいと、先生に言われたんです。そこから学校案内などを見るようになり、目に入ったのがエアブラシで絵を描くことを教えてくれる専門学校でした。中学校の時に、エアブラシの絵を見て「写真みたいですごい。自分でもできたらいいな」とちょっと思ったことがあり、エアブラシで絵を描きたいだけの理由でデザインの学校に行こうと決めました。

それなら美大のほうが専門学校より将来的に何かと有利だからと先生にも薦められたんですが、天邪鬼の性でしょうか、それなら不利なほうに行ってみようという気持ちや、早く社会に出たかったこともあり専門学校を選びました。

●グラフィックデザインへの目覚めの瞬間を教えてください

甲谷:進学動機となったエアブラシの授業はグラフィックデザイン科のカリキュラムにあり、グラフィックデザインの授業は必然的に受けていました。これがすごく面白かったんです。僕より絵の上手い人は山ほどいても、デザインになると「絵を描く能力=デザイン力」ではないので、自分でも勝てると思って取り組んでいました。当時、浅葉克己さんなど著名なアートディレクターのデザインを見る機会も増え、頭の中で考えたイメージを文字、写真、イラストを使って表現するビジュアルに可能性の深さ、豊かさを感じ、さらに没頭していきました。

ダリの展覧会を観たときに、筆でこんなにリアルなものが描けるならエアブラシはもういいかなと思い、やらなくなりました。当時はグラフィックデザイナーとアートディレクターの違いもわからなかったし、電通や博報堂はもちろん広告代理店すらわからず。ただ、グラフィックデザインは面白く、スキルアップのために、『アイデア』『ポートフォリオ』『デザインの現場』など、雑誌を読みあさってました。また、図書館で高価な『ADC年鑑』を借りてレベルの高いデザインに触れたりと。とにかくデザイン漬けの毎日でした。Macは学校にあったけれど、使えなかったので、ひたすらアナログでした。とにかくメジャーな仕事がしたかったので、就職活動は現物作品をたくさん抱えて10数件くらい必死で回って、納得がいく仕事ができそうな広告制作会社に入社できました。

恩師、高橋稔さんとの出会いが人生を変えた

●就職してからはどんな仕事をしていましたか?

甲谷:メジャーな仕事をしていると思って入った会社は、面接時に見せていただいた作品は過去のもので、当時の仕事は販売促進のための小さな広告物ばかりで、目指していた世界とのギャップがあり、面白いと思えなかったんです。そこでは週末の休みもほとんどなく毎日終電くらいまで働く日々。結局体を壊して1年半くらいで辞めました。そこでわかったことは、自分は販売促進が目的のデザインじゃなく、純粋にグラフィックデザインがやりたいということ。デザインで「売る」という目的の強さが苦手なんですね。

当時は精神的なストレスもすごくあったので、退職後、半年くらいは働けなかったし、デザイン自体もやめようかなと悩みました。ただ、デザイン以外の道も難しく、再度、デザイン会社を訪問し始めましたが、1年半しか勤めていないので作品がほとんどなくて、どこも相手にしてくれない。僕は学生時代に一生懸命課題を作っていたので、色面構成の平塗りなどの技術は高かった。

でも、即戦力がほしい会社がほとんどで、学生時代の作品じゃなく、今、何ができるかを知りたいと言われてしまう。そんな第二の就活でした。ただ、その中で知り会った人づてに紹介してもらった著名なアートディレクター、高橋稔さんに会わせて頂ける機会があり、行くところに行ったら自分が目指すような仕事をしている人たちがいるんだと実感し、高いレベルで仕事ができるデザイナーになろうと心に誓いました。

●高橋稔さんが恩師とは、どういう部分で?〜

甲谷:高橋さんはロゴデザインでもその名を馳せていました。僕のような駆け出しデザイナーのロゴに対する稚拙な質問にもわかりやすく、考え方作り方を教えていただいた。そしてぐいぐいと引き込まれるようにロゴへの興味が膨らみ、そこから自分でもロゴ作りを始めました。何か月か経って高橋さんに自分の作品を見てもらおうと連絡。プレゼンで忙しいから後日にと言われ、それなら手伝わせてもらえませんかとお願いしました。

結局、インターンみたいな形で仕事の現場に入れていただきました。やることは高橋さんの打ち合わせや仕事を間近で見せてもらうくらいで、作業の手伝いはほとんどありませんでした。実は、今でもこの3週間が人生を大きく変えるものだったと思っています。高橋さんは高慢な態度をとることもなく、駆け出しのデザイナーに真摯に向き合ってくれたんです。高橋さんの所作や現場で見るもの全て僕のデザイン心を刺激しました。しっかりしたデザインのビジョンがある人がディレクションすると、こんなにビジュアルが良くなるんだな、「なるほど!」の連続で、あの日々がなかったら今デザイナーはやっていなかったと思います。

高橋さんに仕事のやり方を見せて頂いたことで、その後のデザインへの姿勢や意識がガラリと変わりました。この貴重な期間の最終日には、ほとんど手伝いもしていないのに5万円をいただいたんです。あの時、22歳だったかな。お金もないから、汚い格好をしてたんでしょうね。「デザイナーはクライアントあっての仕事だから、クライアントに会うときはジャケットくらい着たほうがいい」と言われていたので、そのお金ですぐにジャケットを買いました。そして、今度こそ納得のいく会社に勤めなきゃと思って就職活動をしたら、わりとすぐに、しっかりしたグラフィックデザインの仕事をしている会社に入れました。もしかしたら、服装だけじゃなく、自分自身の中身も変わっていたのでしょうね。

そこでは最初、先輩のアシスタントをしていました。ただ、早く自分のデザインをしたいと思っていたので働き方を考えて、とにかく頼まれる仕事は誰よりも早くこなし、空いた時間に自分のデザインを作るようにしました。次第に自分のアイデアを出せるチャンスも出てきて、クライアントの要望以外に、その倍くらい自分のアイデアも作っていたら、そのうち指名で仕事が入るようになってきました。

夢だった相田みつを美術館の仕事がフリーになるきっかけに

●ライフワークとなっている相田みつを美術館の仕事は、
どんな経緯で始めたんですか?

甲谷:僕が21歳の時に、相田みつを展という回顧展を観て人生を揺さぶるような衝撃を受けたんです。相田みつをさんは、人々にわかりやすい平易な言葉を独自のスタイルで表現することにこだわった書家であり、詩人でもあった人。生活は苦しかったようですが、ストイックに創作に打ち込み、相当な覚悟で生涯を貫いた、非常に内面の激しい人だった聞きます。それが多感な若者だった僕に突き刺さった。いつか相田さんの書を使ってデザインしたいと思いました。そうはいってもなかなかチャンスがあるものではない。

そうこうしているうちに、2年半後、相田みつを美術館が銀座にできたんです(現在は、丸の内に移転)。このときを逃すものかと、美術館のポスターを自主制作し、アポなしで館長を訪ねました。館長は相田みつをさんのご子息で、当時41歳。飛び込みなのに、丁寧に話を聞いて頂きました。ポスターのデザインもなかなかいいですねと言ってくださって。この美術館の仕事をしたいんですと、熱心に伝えました。半年後、夢は実現し驚きを隠しきれませんでした。美術館にそれまでいくつもの売り込みや、既存のデザイン会社との付き合いもあったかと思います。でも若い人にチャンスをと思ってくれたんでしょうね。実際に仕事をいただいてから、もう20年近くのお付き合いになります。

フリーになったのは美術館の仕事量が多くなって会社の仕事との両立が厳しくなったから。
勤めていた会社の仕事とは別に、個人的にお仕事をさせて頂いていたので、会社の後に打ち合わせに行き、帰宅後作業をするという生活を1年続けました。ただ、この二重ワークでかなり疲れていたし、生活できるかどうかは別として、今しかできない、自分が本当にやりたい仕事に専念しようと思って、会社を辞めました。収入は減ったけど、納得いく仕事ができていたので、若さゆえの無謀さもあり、先のことは何も考えずに行動しました。デザインスキルに関しても、美術館の仕事に夢中で取り組むことが最大のトレーニングとなり、着実に力を付けられたと思っています。

相田みつを美術館へデザインを売り込み、仕事をいただくという夢をかなえたことだけを見ると、かなりのバイタリティの持ち主と思われます。実際はそういうタイプではなくて、それはもうご縁ですね。売り込みに行ったのは相田みつを美術館だけだし、あのタイミングではなく、数年後とか何年か前に美術館ができていたら上手くいかなかったと思います。なにか運命的な道筋がサーッと目の前に一瞬開けて、「今だ」と言われて、踏み出したような気がします。

●いくつか本も出していますね。デザイナーがどうやって本を出せたのですか?

甲谷:8年ほどのフリーランス期間を経て、2006年に法人にしました。フリーになって3年ほどした頃だったと思いますが、大きな会社なのに請求書を切っても支払ってもらえず、途方に暮れたことがありました。交渉の仕方や対策の技術も当時の自分にはなかった。全てにおいて甘かったと思います。こういうやり方ではだめだと反省。大きな仕事が入っても安心せず、他の仕事もやっていかなくてはダメ。そう思い、出版という新たなジャンルのデザインに触指を伸ばしました。

求人誌などでデザイナーの外部スタッフ募集を探し、その中のひとつだったのが出版社のピエブックス(現、パイインターナショナル)。デザイン書で有名ですよね。そこでは、数十冊の本のデザインをやらせていただきました。当時、ピエブックスはデザイナー向けの本がメインでしたので、遊びのあるカバーデザインをいくつもつくらせてもらうことができました。自分の中でも毎回タイトルロゴを必ずつくろうと決め、タイトルに既成の書体はほとんど使いませんでした。

自著本を出したのは、雑誌「MdN」を発行しているエムディエヌコーポレーションから、2007年に出した『ハイグレード・デザインフォント』が最初。『MdNデザイナーズファイル』という本を2005年に書店で見かけたことがきっかけです。トップアートディレクターから、期待の若手デザイナーまでが200人以上紹介されているのですが、その時の表紙デザインがとても素晴らしくて、僕の心を惹き付けました。この本にすごく載りたいと思い、出版社にコンタクトを取ったんです。担当の方とお会いした時に、僕がつくりためてきた書体をフォント集として一冊にまとめませんかとのお話を頂きました。

書体は高橋稔さんにロゴの作り方を教えてもらったことがきっかけで、5文字くらいの欧文ロゴを26文字のアルファベットに展開してみたら、それがすごく面白くて。10年くらいコツコツつくり続けたものが30書体くらいありました。ブックデザインまですべてやったこの本がNY TDCで受賞。この本を出せたことは大きかったですね。その次の本は2010年にビー・エヌ・エヌ新社から出した『きれいな欧文書体とデザイン』。

書体の世界は専門家でもない限り、やはりすごく難解なんですよ。書体のことを知りたいと思っても、若い頃の僕がそうだったように、その難しさの前に小さな好奇心程度だとくじけてしまう(苦笑)。そういう経験から、誰にでもわかるような簡単な入門書があったらいいなという想いを形にしました。本を出した一番の効果は信頼が付いたことですね。はじめに本を出しませんかと言われた時に、出版社の人にお金にはならないけれど社会的に信頼度がつくと。1冊目ではあまり実感がなかったのですけど、2冊目を出してから、各所でお声がけいただいたり、媒体でも取り上げていただいたり、じわじわと実感が伝わってきました。

●なぜ会社名をHappy and Happyにしたのですか?

甲谷:デザイン会社なのでスタイリッシュな名前にしたかったんですけど。奥さんにベタな名前のほうが、覚えてもらいやすくていいと言われて、あれこれ考え『Happy and Happy』に決めました。以前読んだ矢沢永吉さんの『アー・ユー・ハッピー?』という本のあとがきに、『「アー・ユー・ハッピー?」ということばには、たぶん、「アー・ユー・ファイティング?」という意味が、隠れているのかもしれない』という文章があって。その一文が、ずっと心に留まっていたんです。
要は、充実感(ハッピー)を得るには挑むことが必要だと。一見軽そうなHappyという言葉の中に、こういう深い意味を見いだすこともできるのかと感動し、Happyに二重の意味を持たせてこの社名にしました。

僕の場合は、かっこいいことにこだわるよりも、親しみやすくてもいいから、魅力あるものをつくりたいんです。遊び心があるとか、クライアントの想いを込めるとか、そういうものが自分のデザインだと思います。デザイナーですから、かっこいいものをつくりたいとか、かっこよく思われたいというのは当然あります。ですから、あえてベタな会社名にすることで、自分が進むべき方向性を見失わないようにしているんです。

●もっとステップアップしたい、と思っている読者に贈る言葉はありますか?

僕が贈ってほしいくらいです(笑)。なんだろう。待っていてもチャンスは来ないから。自分からアクションを起こすといい、ということですかね。売り込みに行くのでも、意図しない売り込み先を選んでしまうこともあるし、求人誌の外部スタッフ募集とかでもなかなか合う仕事ってない。でも、興味が湧きづらい内容だとしても、まずは一回やってみる。そして、目の前の仕事に手を抜くことなく、真剣にデザインし続けることが大切だと思います。どんな仕事でも制約はつきものですから、その中で自分なりの解決策を探すことが必要となります。そういう小さくて地道な修練の積み重ねが、ステップアップに繋がり、またそのステップアップをしっかりと支えるものだと思います。

 

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