Creator's Value クリエイターズ・バリュー

SEIBUNDO SHINKOSYA PRESENTS

秋山 花

秋山 花Illustlator

Hana Akiyama

http://www.hanaakiyama.com

●PROFILE
1984年2月13日生まれ。多摩美術大学大学院博士課程前期グラフィックデザイン研究領域修了。書籍、広告、雑誌、Web、パッケージ、CD、新聞等でイラストレーションを手掛ける。2014年NY ADC賞銀賞など、国内外で多数受賞。
TIS会員。東京工芸大学デザイン学科非常勤講師。作品集「"IHATOV" FARMERS' SONG」(2009年PLANCTON)、絵本「ソックモンキーのおくりもの」(2010年講談社)(造本装丁コンクール審査員奨励賞)を出版。雑誌「暮しの手帖」、文芸誌「MONKEY」、など、各方面で挿絵連載中。

描いて、描いて……つねに描いてなにか動いているのが大切だと思います。

描いて、描いて……つねに描いて
なにか動いているのが大切だと思います。

クラフト感のあるオリジナリティあふれる作風を生み出し活躍の、秋山 花さん。その作品は、学生時代から注目を集め、広告、CD、書籍、プロダクトと幅広く親しまれています。恵まれた環境で育ったにもかかわらず、自らの力で実現してきた仕事の数々。その背景には、イラストレーターで自立する! という強い意志がありました。
(聞き手/クリエターズ・バリュー編集部 文・笠井理恵子)

描こう! と決意させたのは小さい頃の楽しかった経験

●幼少期はどんなお子さんだったのでしょうか?

秋山:私は両親がイラストレーターということもあり、家には美術関係のものが多く、また、父がヨーロッパのポスターのコンペに参加していたこともあって、たくさんのポスターに囲まれて育ちました。幼稚園の頃からは毎週、妹と一緒に美術館へ連れて行かれ、小学生くらいの頃には、父の仕事の関係で海外の美術館へ家族で行ったりもしていました。

●超がつくほどの英才教育ですね。

秋山:教育と言われると特にそうでもなかったのですが、最近になって、ハッ! としたのですが、レールは敷かれていたんだなって気づきました(笑)。

●最初に描いた絵は覚えていますか?

秋山:私たち姉妹が子供の頃に描いた絵を、父が本にまとめたものが残っていて、それを見るかぎりではオバケみたいな顔を描いていたりして、特別なものではなくふつうの子供の描く絵ですね。ただ、家に絵の具や道具はありましたし、紙もあったので環境はよかったのだと思います。3歳くらいのときには、つねに仕事をしている父の足下で遊んでいました。これは大人になってから親に聞いた話ですが、当時、仕事の依頼を受け、クライアントと電話でやりとりをしながらささっとラフを描く父の姿を真似て、私も絵を描くときは必ずオモチャの電話の受話器を持ち、「ハイハイ…」と話しながら描いていたらしいのです(笑)。

●将来の夢を描き出したのはいつ頃ですか?

秋山:中学の終わりと高校のはじめに、イギリスのロンドンへ英語を学びに短期留学したのですが、しゃべれない、通じない、でも、友達は欲しいという状況で、あるとき、スケッチの授業があったんですね。私は、やっぱり絵を描くことが得意だったらしくて、そのときは、森の樹木を描いたのですが、もうクラス中の子や先生から絶賛されて、うれしくて。英語はできなかったのですが、それから、フッと変わったようなかんじがします。

●絵はコミュニケーションツールですね。

秋山:言語を越えるんですね。そのときに、これは武器として役に立つんじゃないかな、と身を持って体験しました。ほかの海外旅行のときにも、父がレストランで「これは魚?」とスケッチブックに絵を描いてお店の人に見せて訊いているのを見ていましたので、ツールとしては信じていた、といいますか、強いものだとは思っていました。

●本格的に進路を決めたのはいつ頃ですか?

秋山:はじめは美術史のほうへ進もうと思っていましたので、高校1年生のときからそのために予備校にも通っていました。しかしそのうち、やっぱり小さい頃の経験を思い出して、それが、楽しかったのでしょうね。描こう! と決めました。

とにかく必死。がむしゃらに描き続けた学生時代
自分の「好き」から生み出された作風

●多摩美術大学へ進学されました。その頃、将来についてはどのように考えていましたか? 

秋山:私はイラストレーターになりたくて多摩美術大学に入った、というけっこうレアなパターンなんですね。もともとヨーロッパのイラストレーションがすごく好きで、憧れていたのもあってイラストレーターになりたい! と思って入ったのですが、多摩美にはグラフィックデザイン学科にイラストレーションのクラスがありましたので、それで選びました。入学してからは、デザイン系というよりも、イラストレーション、アニメーション、写真など、わりとものづくり系のクラスをとりました。

●当時はすでに、今の作風のようなムードをもっていたのですか?

秋山:途中からですね。クラフト感のあるものを、わざわざパソコンに取り入れてメディアにのせる。それが皮肉っぽいというか(笑)、おもしろいと思っていました。

●基本は、アナログな世界ですよね。

秋山:そうですね。アナログが好きですね。

●今の作風の目覚めは大学の頃ですか?

秋山:そうですね。大学に入ってからですね。

●あっこれだ! というような、その瞬間はあったのですか? 

秋山:いつだったのでしょうね(笑)。1年生の基礎の授業では、美術史に沿って、絵の具の絵画を描く課題が毎週あり、それで絵の具の勉強をしました。これを塗って、その上にこれを塗れば、こうなると、そこで楽しさを見出したのかもしれないです。

●当時はもう、今の作風ほどできあがっていたのでしょうか?

秋山:今ほどではなかったですけれど、基本的には質感のある背景をわざわざ作ってから絵をのせていく、というやり方だったり、それをひっかいてみたり、コラージュしてみたり、というのは大学時代からやっていましたね。

●世界がありますものね。絵本的でもあります。

秋山:今思えば、マチエール、素材とかに関しては、やっぱり父がうるさかったかもしれないですね。マチエール、マチエールという言葉をすごく言っていたような気もします。大学で聞いていたのか家で聞いていたのかあまり記憶にないのですけれど、絵の質感というのはかなり意識していました。

●そうしたなかで、公募展に出したり、デビューしたい、という思いがふつふつと湧いてきたりしたのですか?

秋山:まわりの子が就職活動で頑張っていたので、自分も何か頑張らなくては、と思ってコンペを自ら課題として頑張っていました。海外のポスターコンペなどにもたくさん出していました。そのなかで、4年生のときに、ひとつぼ展(現・1_WALL)に入賞し、さらに、その受賞者のコンペに参加し、選ばれ、奨学金を頂けて、お金の心配をせずに制作活動に集中できるようになりました。大学院生のときにはチョイスにも通りました。

コンペに出した作品がアートディレクターの目にとまった!
自分でつかんだ初仕事

●はじめてプロとしてイラストを描いたのは、いつですか?

秋山:大学院卒業後すぐに、アートディレクターの森本千絵さんとのお仕事が、いちばんはじめです。チョイスの年度末に行われる、その年の入賞作品の中からもう一度選ぶというときに、私の作品が森本さんの目に触れて、ちょうどそのとき、私はアルバイトでチョイスのパーティの受付をするために会場に行っていたのですが、森本さんご本人がいらっしゃって、直接、仕事を頼みたいと思っています、と言われました。

●その仕事とは、どのようなものだったのでしょうか? 

秋山:沢田研二さんの60歳記念のアニヴァーサリーに行われた、渋谷公会堂(当時の名称は、CCレモンホール、現在は休館中)でのライヴのために作成された、過去の楽曲全部をまとめたブックの中のイラストレーションを描くという仕事でした。その本はCDが挟まっているアートブックのような豪華なもので、森本さんが考えたジュリー(沢田研二さんの愛称)の化身のストーリーがあり、そのジュリーの化身などの絵を30枚ほど描きました。

●森本さんのディレクションが、かなりあったのですか?

秋山:打ち合わせの段階で、こういうシーンが欲しい、という要望がありましたが、かつ自由にも描かせてもらいました。

●それは、大学のいつの頃ですか?

秋山:依頼を受けたのは大学院の卒業のときで、卒業してから仕事がスタートしました。

●ではもう、フリーになるとかならないではなくて、卒業したらその仕事が待っていた。

秋山:そうですね。とにかく、まずはそれを頑張る、というかんじでした。当時、今もですけれど、森本さんは露出が多かったので、その作ったものもいろいろなところに掲載されました。『デザインノート』さんにも掲載されたと思いますし、『イラストノート』さんに取材をしていただくときも載せていただいたと思います。みなさん、それをチェックされているんですね。それを見たかたから、また仕事をいただけた、というかんじです。

●雑誌に掲載されたのは、けっこう大きかったですか?

秋山:はい。大きいと思います。秋山花という名前も載せていただいていましたので、まわりのみんなにも、見たよと言われましたし。

●やっぱり、うれしかったですか?

秋山:それはもう、自分がやった仕事がメディアに載っているので、とてもうれしかったですね。

ショップの一角を借りて
作品を展示する、というスタイル

●デビューから、ロケットスタートですね。 

秋山:ロケットスタートでした(笑)。すごい緊張して、いまだに、森本さんの事務所に行ったときのことも覚えています。その、森本さんの仕事をやっているときに、ちょうど同じ時期ですが、いくつか他の仕事がきました。

●どういう内容のものですか?

秋山:文芸誌のモノクロページの挿絵などでした。

●それは、何を見ての依頼だったのでしょうか?

秋山:コンペですね。コンペのどこかで私の絵を見て、だったと思います。

●ちなみに、個展などはやられていたのですか?

秋山:はい。大学時代はグループ展などをやりましたし、個人では、大学院を卒業してからですね。ギャラリーのレンタル料などはやっぱり高いので、お金を貯めてからやりました。

●イラストレーターのかたは、クライアントさんとの接点や、自分や作品をお披露目するということで個展をするというケースが多いですね。

秋山:私の場合、個展も行ったのですが、インテリアショップのイデーさんで展示をしたり、大学の同級生で仲良しのイラストレーターの、塩川いづみちゃんと二人展をやったり、お店の一角を借りて作品を展示するということもあったりします。これまでは、そういうケースが多いですね。

●それは仕事としてですか?

秋山:そうですね。それはレンタル料を払うのではないので、もはや仕事ですね。イデーさんの場合ですが、もともと、いづみちゃんがイデーさんで仕事をされていたのですが、それとは別に、私は私で、あるグループ展に参加したときに、そこにイデーのかたが携っていて仲良くなったのですが、私が、塩川いづみちゃんと仲良くてと話すと、それじゃあ、イデーのショップに絵を飾れるスペースがあるけれど、二人で何かやる? とおっしゃってくださったのがきっかけです。イデーさんでの展示と森本さんの仕事が同じ頃にあり、森本さんのほうで私の名前を見てくださったかたが、イデーさんに作品を見にきてくださるということもありました。

●お父様に関しては、あまり意識はされなかったですか? 

秋山:新規でいただく仕事は父のことは知らずに依頼をくださり、あとから父のことを知る、というパターンがほとんどです。父とは作風も違いますし、とくに意識したことはなかったですね。父は父で、私をライバル視して(笑)、花、こんな仕事やったのか! オレもやりたい、って(笑)。それこそ『イラストノート』さんに私が掲載していただいたときですが、その次の号に父が出ましたよね。父はエネルギッシュなので、そもそもライターさんが私の取材に来られたというのに、自分の話しがはじまっちゃうわけですよ(笑)。それでライターさんも興味をもってくださって……。

●もう取材せざるをえない?(笑)

秋山:そうなのです。それに、私のときは何人かのかたとご一緒、という構成だったのですが、父のときは、いちばん最初に一人で載せていただいて、どうもありがとうございます。でも、家庭内に張り合いがあってよかったです。私は自分のやった仕事を見せなかったり、隠したりしてました(笑)。

涙の日々。休む場所のない精神的なつらさ
愛あふれるスパルタで強くなる

●苦労話を聞きたいと思ったのですが、大変だったこととかはありますか?

秋山:私の場合、二世ですので、二世なりの苦労話はありまして……。

●たとえばどのようなことでしょうか?

秋山:これは、受験のときの話に戻るのですが、毎日大泣きの、父娘のスパルタ教育がありました。こんなデッサンでは受からないぞ! と。自分は、石膏なんて見ないでも描ける、というかんじでしたので、私の石膏デッサンとかを見るとバレちゃうんですよね、こんな形じゃないぞ! って。もう、熱血教師のようで。私は予備校に行っても評価されるし、家に帰っても評価されるしで、もう休む場所がなくて、毎日滝のように泣きながらの日々でした。それで鍛えられたというのは、今思えば感謝ではあるのですけれど、精神的には、かなりきつかったですね。

●それはどのくらいの期間、続いたのですか?

秋山:その受験のときプラス、私は多摩美に入ってしまいましたので、もちろん続きまして(笑)、しかも大学院にもいきましたので、6年間ずっと続き……。けっこうナーバスな状態な、でも、それで頑張った、というのはもちろんあったと思います。入学してからは、父娘というのは、すでにみなさんに知られていましたので、私のほうが気を張っていて、必死だったと思います。大学での評価だけではなく、外のコンペとかの評価もしてもらいたくて。とにかく、イラストレーターとして、親の力を借りずに自立するんだ! というのに燃えていました。

●むしろ良かったということですね。つらかったけれど、その気持ちにさせてくれた親に感謝ですね。しかし、選択肢がないかんじですね。

秋山:そうですね(笑)。

●ほかの仕事に就くことは考えなかったのですか?

秋山:親の二人ともがイラストレーターですので、いい意味でほかのことはあまり知らなかったんですよね。

●興味も湧かなかったのですか?

秋山:父の仕事をする姿を見て、楽しそうだなと思っていたんですよね。激しいんですけれど、生きがい感が見えてくるというか、きっとやりがいがあるんだろうな、と感じていました。

●そこまでスパルタ的に学生時代を送ってイラストレーターになられたかたって、それほどいないでしょう?

秋山:そうですよね。イラストレーションって、もともとカジュアルな雰囲気もあったりするんですけれど、私にとってはかなり重みのあるものだったのはたしかですね(笑)。

●しかし、アウトプットはさわやかといいますか、重くないですよね。

秋山:もしかしたら、父と私の一対一だったら出たかもしれないのですが、母が上手く私のこともコントロールしてくれたのだと思います。事務的なことなどいろいろと教えてくれてサポートもしてくれましたし、良い環境をつくってくれました。母の存在も大きかったと思います。

●デビューは、いきなりのロケットスタートで、そのあと独立もされたとのことですが、生活はイラストだけでまわっていたのですか?

秋山:いいえ、イラストの収入だけでは難しかったので、ショップでアルバイトをしたり、大学の助手といいますか、研究室のアルバイトをはじめました。その仕事とイラストの両立でした。大学のある場所は少し遠かったのですが、その行き帰りにイラストのアイデアを考えたりもできました。

大変だったけれど楽しかった新聞の連載
本を積み重ねての日々に、大きな充実感

●悩みはありましたか?

秋山:悩み……。そうですね、悩む、というよりも必死でしたね。徹夜もいっぱいしましたし、じんましんも出ました。

●そのじんましんは、何に対してだったのですか?

秋山:私の場合、一枚の絵に時間がかかってしまうこともあり、体力的にと、リミットが近づくことへのプレッシャー、あとは、ずっと描いていたこともあって食生活が乱れたことが重なってのことだったと思います。身体を壊してしまったことがあるのですが、それ以来、バランスをとるようになりました。

●親御さんも心配されたでしょう。いちばん大変だったのはどのようなときですか?

秋山:そうですね。いちばんきつかったのは、2年ほど前の、新聞小説の連載ですね。よしもとばなな(現筆名は、吉本ばなな)さんの小説で、毎日締め切りというかんじでした。その当時は大学の講師もやっていましたし、他からの仕事も受けていましたので、もう、とんでもないことになってて……。しかも、私の絵は時間のかかる絵なのですが、新聞小説の連載は、そのようにきちっと描いてほしいというご依頼でした。

●それは新聞社からの依頼だったのでしょうか?

秋山:ばななさんからのです。ばななさんご自身が作家さんとの関係をとても大事にされているかたで、お会いして一緒にお食事に行ったりもしました。じつは私は前からばななさんの大ファンでしたので、とてもうれしくて素敵な体験でした。

●どのくらい、その連載は続いたのですか?

秋山:全部で209話あったんですよね。だから私も全部で209枚、描きました。

●それが毎日でしょう?

秋山:はい、大変でしたね(笑)。それが本当に過酷で、朝の4時、5時になるのは、あたり前でした。
イラストは一週間ごとに出していたのですが、やはり7枚分ありますので、ほぼ毎日描いていました。首が支えられなくなって、デスクの手前部分に本を積んで、そこにあごを乗せて描いてました(笑)。あとは、手が痙攣してしまったり、いろいろありましたね。

●どうやって克服したのですか?

秋山:それは……、本を積み重ねて乗りきりました(笑)。あとはアドレナリンが出ていたのですね。ばななさん! ばななさん! って興奮状態で。ばななさんからいただいた、お仕事で行かれたという韓国のお土産の小皿に消しゴムをのせて目の前に置いて、それを見ながら、がんばるぞ! って気持ちを奮い立たせていました。

●すごい大変な仕事でしたでしょうけれど、すごいやりがいのある仕事でしたね。

秋山:イラストレーターってこんなかんじだったかなって(笑)。大変でしたけれど、とても楽しいお仕事でした。

育児と仕事
仕事とコミュニケーション

●今は、どのようなスタンスで仕事をされているのですか?

秋山:今は、子供が生まれてまだ2ヵ月なので、連載を数個しているだけなんです。お声をかけていただいて、やりたかった仕事もあり、お断りしたのは心苦しかったのですが、ただ、今は育児が最優先ですので……。

●出産の何ヵ月前まで仕事をされていたのですか?

秋山:連載は1ヵ月前までやっていまして、大学のほうは半年前までです。

●子供ができ、時間的にどうしても仕事をするのが難しくなる。フリーでされている女性のイラストレーターさんやグラフィックデザイナーさんは、たくさんいらっしゃいます。秋山さんはどういう感想をもたれていますか?

秋山:そうですね。私もはじめての体験ですけれど(笑)。お声をかけていただいたお仕事は全部したいので、断るのは本当に心苦しいです。再開する時期はお伝えしているのですが、育児はなかなか、想像以上に大変ですね。予想もつかないですしね。私も、フリーでされているデザイナーやフォトグラファーのかたに、どうやっているの? と訊いたりもするのですがみなさん、大丈夫だよ、出来る範囲でやるだけだよ、ってアドバイスをくれたりもします。

●仕事において、人と対峙するときに気をつけていることなどありますか?

秋山:私はわりとアートディレクターさんのやりたいように寄りたいほうなんです。やっぱりイラストレーションはデザインでずいぶん変わりますから、最終的にイラストを出すときは、もうその人に任せる、我が子を旅に出すかんじではあります。

●アウトプットされたものを見たときは、こんなふうになったんだ! という喜びみたいなものがあったりするのでしょうか?

秋山:そうですね。ああ、あのかたは、こういう使い方をしてくれたんだ、というのはありますし、楽しいところではありますが、最初に打ち合わせでお会いしたときに、このかたはどういう使い方をしてくれるんだろう、というのもあります。

●クライアントさんとのコミュニケーションで、心に決めていることはありますか?

秋山:私はわりと小心者で(笑)、ラフのアイデアを数個提出し、こういうのがいいですか? とわりと探り探りやっていくタイプなのです。やっぱりキャッチボールがあるほうが、最終的にはいいようです。

●若い人やがんばっている人へ、メッセージをお願いします。

秋山:それぞれの人に画風があり、それが活かされる分野が必ずあると思うので、どういう仕事をしたいか、というイメージをしっかりもつことが大切だと思います。したい仕事と好きだ、というものは変わらないと思うので、好きなものをするのがいちばんいいのだと思います。自分の経験からですが、動いていると、なにかに巻き込まれていく。だから、とにかく休まないで、描いて、描いて……つねに描いていってほしいです。コンペを目標にしてもいいですし、なにか動いているのが大切です。そうすると、その先が見えてくると思います。

 

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