Creator's Value クリエイターズ・バリュー

SEIBUNDO SHINKOSYA PRESENTS

大塚 いちお

大塚 いちおIllustlator art director

Ichio Ootsuka

http://ichiootsuka.com

●PROFILE
1968年、新潟県生まれ。
書籍や雑誌、広告、音楽関係のイラストレーションから、テレビ番組のアートディレクションまで幅広く手掛けている。HBギャラリーファイルコンペで宇野亜喜良賞、『GIONGO GITAIGO J” I SHO』(パイインターナショナル)で東京ADC賞受賞。おもな仕事に「8月のキリン」「キリンビール」のパッケージイラスト、横浜ゴム「PRGR」ブランド広告、NHK教育テレビ「みいつけた!」のキャラクターデザインやアートディレクションなど。

うまくいかなくてもあきらめないで、よりよい仕事を求め続けよう。

うまくいかなくてもあきらめないで、
よりよい仕事を求め続けよう。

キリンビール「8月のキリン」などの広告をはじめ、テレビ、音楽、映画関係、新聞、書籍、雑誌と幅広く活躍している大塚いちおさん。バブル景気に沸いた80年代、イラストレーターの登竜門といわれた公募展「ザ・チョイス」に入賞。ところが「それだけでは仕事が来なかった」という。“自分らしい仕事”ができるようになるまでの試行錯誤の日々を語っていただいた。
(聞き手 クリエイターズ・バリュー編集部 文・中山薫)

好きなものを夢中で描いた成長期

●幼少期はどう過ごしていたんでしょうか。

大塚:僕は新潟県上越市という雪深いところで育ちました。上杉謙信の郷として知られています。父が大工職人だったので、子どもの頃は材木の切れ端を積み木がわりにして並べたり切ったり、組み立てたり崩したりして遊んでいました。
小学校の写生会で自分が気に入った木の幹の部分だけを描いたりして、描きたいものを夢中で描くタイプでした。他の子の絵とはずいぶん違っていたんですが、それをほめてくれる先生もいて。
小学生時代は、よく地元銀行が主催する絵画コンクールなどで受賞したので親も喜んでくれました。中学・高校は美術部に所属。そこでも自由に描いていて、中学時代は地元出身の小川未明の童画コンクールでも受賞しました。

●その頃から絵の仕事をイメージし始めたんでしょうか。

大塚:いや、絵(絵画)で生活していけるとは思えなくて。僕が育ったところには美大の予備校がなくて、ハードルが高かったんです。でもちょうどその頃メディアの世界では、日比野克彦さん、吉田カツさん、宇野亜喜良さん、和田誠さんといったイラストレーターの方々が活躍していて、漠然と、デザインに近い分野なら仕事になるのではと思いました。なかでも日比野さんはアートに近い作品だったので、僕もそうなれたらいいなと。「東京に出て10年くらいデザインの修行をして独立」というイメージを持ち始めました。

公募展に入賞しても電話が鳴らない日々

●東京に来てからはどんな生活でしたか。

大塚:東京に出てきて専門学校に通い始めた頃は、「日グラ(日本グラフィック展)」(※1)全盛期。毎回違ったクリエイターの方が審査員をしていた「ザ・チョイス」(※2)もイラストレーターの登竜門として知られていましたし、僕も学校に通いながらこっそり何度か応募していましたが、なかなか入選まではいきませんでした。
※1:80年代に隆盛を誇ったパルコ主催の公募展。当時、日本グラフィックデザインの新人登竜門。
※2:玄光社の雑誌『イラストレーション』の公募展。80年代、イラストレーターの登竜門として知られた。

いきなりフリーでイラストレーターとして仕事をするのは難しいと思い、学校を卒業する前に、広告系のデザイン制作会社を2社受けました。バブル期だったせいもあり、どちらも受かって大手代理店の仕事をしているほうに決めました。
ところが、実際に働き始める前に現場を見せてもらいにいったところ、システムキッチンのカタログなどの細かな作業をしているのを見て、自分がイメージしてたものと違うなと思い、考えた末に入社を辞退しました。今思えばかなり生意気ですよね。親はわけがわからないので、ものすごく怒りましたよ。

●結局、就職はしなかったんですね。

大塚:はい。当時はシャワー付きのワンルームに住んでいて、家賃は月4万円。青山のグロサリーストアで週3日、半日だけのアルバイトをしながら専門学校にもう1年残ることにし、チョイスにまた応募したり、友人とグループ展をやったりもしながら、死に物狂いでたくさんの絵を描きました。
そうしてチョイスにやっと入選したのが21歳の時。先に入選した人たちに「次の日から電話が鳴りっぱなしになる」と聞かされていましたが、時代の流れが変わり始めていたようで、全然鳴らないんです。

認められればそれで仕事になると勝手に思っていたから、ショックでしたね。自分の表現としての絵を確立しようと意識して描いてはいましたが、まだ20代前半で、仕事として機能する絵ではなかったのだと思います。
そのなかで感じたのは、どんなにいい絵を描いても仕事にならなければどうしようもないということ。僕は東京に憧れて出てきたわけではなく、絵を描くことを仕事としてやりたかったので、絵で生計を立てなくてはいけない。それまではただ自分の表現に向き合いたいと、自分の作品をつくることしか考えていませんでしたが、使ってもらえなければ話にならないんです。

●だからといって“なんでも屋”になってはいけない。

大塚:そうなんです。仕事は増やさなくてはいけないけれど、手っ取り早くできるような仕事はしちゃいけない、よりよい仕事をしなくてはいけない。受注意識でなく、対等な立場で仕事がしたいし、誰かと似たような絵とも思われたくない。
もともと僕は、自分の世界観で仕事ができることへの憧れがありました。当時、音楽業界ではバンドブームがあって、個性あるアーティストが自分たちの世界観で次々に面白い作品を発表していて、自分もそういうつくり方をしたいという思いがあったんです。
22、23歳の頃は必死で営業活動をしました。いろいろな雑誌を見て、自分のタッチに合いそうなところを見つけて編集部に電話するんです。売り込みじたいを断られることもあるし、会ってくれてもろくに作品を見てもらえないこともあります。否定されたらどうしようという不安もたびたびありました。

そういうなかでも時々、「大塚君の絵は悪くない」と言ってくれた人がいて嬉しかったですね。「媚びていないし、かといってアーティスト気取りでもない。きっと気に入ってくれるところがある」と言ってくれて、そういうことが支えになりました。
また、初めは当たり前に自分の作品を入れただけのファイルを用意して、単に「作品を見てください」という売り込み方だったんですが、「それじゃダメだ」と言われたことが勉強になりました。「自分で見せ方を考え、自分でしっかり説明しないと響かないよ」と。要するにプレゼンをしろということです。
そこでオリジナルの絵や雑誌の仕事など、見せ方や話し方を考えて、どんな絵がどう使われたのか、自分が何を考え描いたのかを伝えるようにしたら、「ああ確かにこういう使い方はいいね」と相手がイメージしやすくなって、仕事も広がった気がします。『リクルート』の雑誌などで広告の仕事をもらったりしたのもこの頃です。

「見ただけで大塚くんとわかる」と言われる喜び

●バイトはいつ頃まで続けていたんですか。

大塚:25歳までです。『月刊プレイボーイ』の読者欄に毎月イラストを描く仕事と、大手ゼネコンのPR誌で家のイラストを描く仕事をもらって、この2つで毎月15万円くらいの収入になりました。他にも時々仕事が入るようになり、どうにか生計が立てられるようになって。
その頃、たまたま知り合いから「ボールペンでちょっと挿し絵を描いてほしい」と頼まれたことがきっかけで、シンプルな線画を描くようになりました。最初は「こんなの誰でも描けるんじゃないか」と思いながらも自由にたくさん描いていました。そんな時、装丁家の人から、「ここに絵を描いていって1冊埋めつくしたら面白いんじゃないか」と束見本(つかみほん)をもらって。
束見本(※3)というのは、何も印刷していないまっさらな本のようなもので、そこに毎日のように線画を描き込んでいったんです。その作品でHBギャラリー(※4)ファイルコンペの宇野亜喜良さんの賞を受賞しました。これを機に、線画の仕事が増えていきました。
※3:本の大きさや厚さを把握するために、実際に使う用紙を使ってつくるサンプルのこと。中身はすべて白紙。
※4:1985年にオープンしたイラストレーションギャラリー。展示のほか、ファイルコンペも行っている。

●線画が大塚さんの運命を変えたんですね。

大塚:まさに線画にはまりました(笑)。それまでは、アクリル絵の具やリキテックスを使って描く技法が自分のスタイルだと思っていて、工程があることで安心していた面があったんです。当時、それが仕事にならなかったのは、いま思えば逆に運がよかったのかもしれないですね。
線画は点を打つ場所1つで悲しい顔になったり、楽しい顔になったり、ちょっとした力加減やその日の気分で違った作品になるんです。色をつけたりするよりもむしろ本質的な意味での自分らしさを見つけやすいと思いました。

この頃から第一線で活躍するアートディレクターの方たちと仕事する機会にも徐々に恵まれました。ウルトラグラフィックスの山田英二さんや、ドラフトのADの方たちや、副田高行さん。クリエイティブに真摯な方たちとの仕事はやりがいもありとても刺激的でした。
それから、僕の名刺のイラストを見て気に入ってくれたADの森本千絵さん。森本さんは当時、まだ博報堂にいて、企画当初から一緒に関わった「8月のキリン」(2003年)がきっかけで『GIONGO GITAIGO J” I SHO(ぎおんごぎたいごじしょ)』をつくることにもなり、ほかにも本当にたくさんの仕事を一緒にやりました。「森本と大塚」と、なんとなくコンビのようなイメージがあったかもしれません。
同時期にグラフィックデザイナーの古平正義さん、当時ドラフトにいた柿木原政広さんなど同年代のクリエイターとも仕事するようになり、少しずつ自分らしい仕事ができるようになっていきました。

横浜ゴム「PRGR」の広告を手掛けた時、その広告を「見ただけで大塚君とわかるよね」と言われたのは嬉しかったですね。何をどう描くかというのはその仕事ごとにいろいろ考えるのですが、何をどう描いても、自分が基本として考えていたポジティブさみたいなものは感じてもらえるのだとわかり、自分がいいと思ったものを描くだけでも伝わることもあるのだと、安心できました。
現場ではだんだん年下が増えてきて、仕事のジャンルも広がり、ますます楽しく仕事ができるようになってきました。最近はADとして仕事をする時も多いのですが、感覚は絵を描いているのと同じ。「これがいい」「こうしたら面白い」と思ったことを自分で実際に全体を通してやれるようになって、幅広い表現ができるようになったのは、よかったと思います。
まさか自分がつくったキャラクターの番組がテレビで毎日のように流れて子どもが見てくれるようになるなんて、想像もつきませんでしたが、どう面白くするか、どう世界観をつくっていくかは、どの仕事も一枚の絵を描いているのと同じ感覚です。

仕事は自分でつくっていくもの

●受注意識で仕事をしていたら、いまの大塚さんはなかったでしょうね。

大塚:不得意なことを無理にやったり、よくない結果になる仕事を我慢してやったりしないということはなんとなく当初から決めていましたが、それでもいろいろな経験をしています。たとえば、納品したのに支払いがなく、連絡がつかなくなるというようなこともありました。
仕事が増えてきた29歳の時に結婚しましたが、その頃もまだ最初に夢見たような仕事には届いていませんでした。「自分が一緒にやりたいと思う人と対等な関係で仕事がしたい」と思ってはいましたが、現実にどこまでできるかはわからなかったので、そういう仕事が増えてきた時は本当に嬉しかったですね。
へんな仕事になってしまうくらいなら、やめてもいいくらいの気持ちを持っていました。自分を曲げてまでしてよくないものをつくっても、それは誰にとってもよい結果を生みませんから。

●これからイラストレーターになりたい人に、アドバイスがありましたらお願いします。

大塚:「イラストレーターってどんな仕事ですか」「どうしたらイラストレーターになれますか」と聞かれることが多いんですが、これまでのしくみが大きく変わろうとしている時代なので、一概に「こういう仕事です」「こうしたらなれます」と言えなくなっています。
僕の時代は広告でも雑誌でも、イラストレーターが活躍する場がたくさんありましたが、最近はそういうところも少なくなってきています。
厳しいからと簡単にあきらめがつくようなら、プロを目指さないほうがいいでしょう。プロとして仕事を続けていけるのは、描かずにいられれない人なんです。
これからの時代に求められるのは、「仕事は自分でつくるもの」という意識を持つこと。自分のイラストをどこでどう使ってもらいたいか、ひとりよがりでなく、客観的に具体的にイメージさせることができれば、みんなが見たがるし、使いたがる人もいるでしょう。やがて既存のメディアとは違う、新しいシステムが生まれれば、道は開けてくるはずです。

 

ページの先頭へ