内田 喜基Art Director
Yoshiki Uchida
http://kanamono-art.com
●PROFILE
1974年静岡生まれ。 博報堂クリエイティブ・ヴォックスに3年間フリーとして在籍後、2004年cosmos設立。広告クリエイティブや商品パッケージ、 地場産業のブランディングにとどまらず、ライフワーク「Kanamono Art 」では インスタレーション・個展を開催。2015年プロダクトデザインブランド「COIL」を 静和マテリアルと一緒に設立。その活動は多岐にわたっている。
受賞歴:D&AD 銀賞 / 銅賞、Pentawards 銀賞 / 銅賞、OneShowDesign 銅賞、 London international awards銅賞、Red dot design award、NYADC賞など。
仕事に執着し、真摯に向き合うことが
スペシャリストへの道。
自己研鑽がいい会社、いい人との出会いにつながる。
(聞き手 クリエイターズ・バリュー編集部 文・鈴木理恵子 写真・岡本譲治)
逃げていた学生時代から、逃げない社会人へ
●少年時代から大学までは、どんな生活でしたか?
小さいころはもちろん、周りが受験勉強一色になる中学2年になっても田んぼでドジョウを捕っているような不思議な少年でした。美術以外成績が5段評価の3にもならない感じで。絵は幼稚園から自分の希望で中学2年まで習っていました。今思うとそんなに上手じゃなかったけれど、ちょっとでもほめられることが他になかった。中学のころはオタクでプラモデルも好きでカスタマイズして塗装して、近くのプラモデル屋で賞を取って店の金券をもらったりしました。
美大に行こうと思ってはいましたが、有名なところは学科が通らないから、デッサンと平面構成で入れるデザイン学科のある大学に行きました。新しい大学だったのでMacが揃っていて、そこでphotoshopを学べたことは後々とても役立ちました。卒業をまじかに大学院へ行こうかなと思ったのは就職から逃げていたからなんです。でも、卒業後東京に行くことになった同級生たちはやっぱりキラキラしていて、自分もこのままじゃだめだと思って就活しました。
●就職してからはどんな道のりでしたか?
最初に入ったのは電通の仕事をメインとする社員10人くらいの会社でした。著名なアートディレクターの仕事もしている会社でレベルはかなり高かったです。とにかく激務で、やたら怒られていました。ただ入社半年くらいで会社が1台目のMacを買って、みんな使い方がわからないのに自分は大学でかなり使いこなしていたphotoshopもできるから、ベテランのデザイナーにもその時だけは一目置かれる。フォトショッパーってあだ名まで付けられました。Macがなかったら今のアートディレクター・デザイナーとしての自分はなかったなと思います。
でも結局あまりのハードワークにそこは2年くらいしかいられなくて、次は終電で帰れる会社に入ったつもりだったのだけど、社風が合わなくて試用期間だけの在籍でした。でも、当時結婚を控えていたので無職で結婚というわけにもいかず就活し、大手広告代理店の仕事を中心とする会社に入ることができました。仕事量が多いにもかかわらず、通常チームでやるデザインの仕事を会社の状況もあり全て一人でやっていて、社内では浮いた感じの存在でした。そうしないと自分が気が済まないというのもあったし。そのおかげか、半年くらいで名指しで仕事が来るように。その後、博報堂からお声がかかったのは前代未聞のことでした。
いい会社、いい人との出会いが自己形成には重要
●要所要所でいい方にサイコロの目が出て、スキルアップしていますね
出だしの会社が電通の仕事をしている会社だったので、ポートフォリオがしっかり作れたし、会社の求めている高いレベルに合うようにしごかれたから成長した、というのは間違いないです。自分ができるできないは別として、一番いい物がこれだというのがわからないと、それができない自分も認識できないし、的確な意見も分別なく排除したくなる。最初の志が高く刷り込まれたおかげで、求められているものだけ作っていたらダメだと思うし、その姿勢のおかげで自分と仕事をしたいと人が思ってくれたのかもしれないですね。
博報堂で仕事をしていると、周りに優秀な人が多くて、自分はまだまだだなと感じさせられました。二面性というか、優秀な人達といると自分なんか全然だと思う反面、
一緒にやっている自負もあり頑張っていました。
その後3年くらいで博報堂クリエイティブ・ヴォックスにデスクを置かせていただく状態から自分の事務所を構え、3人のスタッフとcosmosを始めました。それまでいただいていた仕事と、お断りしていた仕事もスタッフが増えたので受けられるように。さらにスケールの大きなクライアントやいい関係を築けた人たちとの出会いが仕事を増やし、同時にもっとメジャーな仕事に取り組みたいという自我や、スキルの高いクリエイションに対する意識がますます膨らみました。35歳の頃、広告専門誌に取り上げてもらったとき、プロフィールに何も受賞歴をかけず少し不甲斐なく思いました。その雑誌の打ち上げで同世代のクリエイターと一堂に出会う機会があり、彼らの志の高さを目の当たりにしたことが刺激になって、国内外のデザイン賞への応募を決意しました。父が働く会社、小山金物のグラフィックツールをデザインし出展したら、海外でも評価され、ビギナーズラックでD&AD賞で銀賞、他の賞にも入賞しました。その後、京都の木版画工房の竹笹堂と共同で制作したポスターがONESHOW DESIGNブロンズ、D&AD賞で銅賞に選ばれました。プライベートワークで賞にトライしてみようと思ったのも、受賞して新たにハイレベルな人たちとつながることができたのも、全ては出会いのおかげ。企画の発端は自分のアイデアでも、それを仕上げる段階では人の協力が欠かせない。自分は人に恵まれているなと思います。
「生み出す仕組み」がこれからのデザイン
●そもそもデザインとはなんだと思いますか?
目に見えるところだけでなく、ライフスタイルも社会の過疎地を活性化する仕組みもデザイン。「生み出す仕組み」をデザインと呼ぶのが今にあっていると思います。地場産業のブランディングをする中でここ2年くらいで気付いたことですが、ブランディングをしていくことだけでなく、地域の人が作るものを注視するのもデザインだと。グラフィックをイメージしていく作業もあっていいけれど、仕組みや機能というデザインのほうが世の中に貢献できると思うので、いろいろなデザインがある中で自分はそちらも積極的にやっていきたいなと思います。
●このページの読者には20代の頃の内田さんに近いような人が多いと思います。彼らにアドバイスはありますか?
センスの良さは大事かもしれないけれど、それ以上に努力や根性が大事なのかもしれない。今、的確かつ美しくデザインやディレクションしている人も、すごく泥臭い努力やしごかれる経験を経てそうなっているのかと想像します。グラフィックデザイナー、アートディレクター、クリエイティブディレクターなど、どんな立ち位置でも、仕事に執着し向き合っていないとスペシャリストにはなれない。あとは、やってみないと経験は得られないということ。多くの知識を持っていても、頭の中で理解していても100%その通りにはならない。むしろ行動することに価値は必ずあると思います。生真面目な人は「なぜ?」と悩みがちです。広告などの人に何かを伝える仕事では「なぜ?」は大事な言語ではありますが、ただ「なぜ?」と頭の中で悩んでいても何も前進しない。それが失敗なのか成功なのか、経験なのか気づきなのかはわからないけれど、何もしないで得られるものはないということだけは言えます。