Creator's Value クリエイターズ・バリュー

SEIBUNDO SHINKOSYA PRESENTS

奥原 しんこ

奥原 しんこIllustlator

Shinko Okuhara

http://www.shinko.cc

●PROFILE
宮城県出身。横浜美術短期大学、セツ・モードセミナー卒業。番組美術制作会社を経て97年よりフリ ーランス。97年ザ・チョイス年度優秀賞受賞、01年3.3崚呼選。主な仕事は、雑誌や書籍、広告、CM、CDジャケット、 WEB、パッケージ等のアートワーク。東京を中心に国内外で展覧会を多数開催。作品集に「KU U KI」「眠る人」がある。

「見に来てください、という思いでDMを送りました」個展を開くことが、プロモーションの大きな役割に

「見に来てください、という思いでDMを送りました」
個展を開くことが、プロモーションの大きな役割に

雑誌の表紙や挿絵、広告、国内外での個展などで活躍の、奥原しんこさん。ビビッドな色彩のコラージュ、ペインティング、精緻なドローイングと多様な作品の軌跡は、いったいどのように生み出されてきたのでしょう。奥原さんを確固たる地位へとのし上げた、具体的に行ってきたこと、仕事への取り組みの姿勢、そのメンタルとは?
(聞き手 クリエイターズ・バリュー編集部 文 笠井理恵)

短大時代の偶然の出来事が、
コラージュの独自のスタイルを生み出すきっかけに

●幼少期はどんなお子さんだったのでしょうか。

奥原:けっして目立つタイプではなく、物語を考えたり絵を描いたりすることが好きな子どもでした。小学校のときには絵画コンクールに応募して展示されることもありましたが、中学校の美術の評価は5段階評価の4でした。特別に美術の成績が良かったわけではなかったのですが、絵を描くことがずっと好きでした。母親が作ったアルバムの中にある子どもの頃の私の絵を見ると、ひとりの顔をレインボーカラーに塗っていて、客観的に見ると、けっこうおもしろいセンスの子どもだなと思います。

●子どもたちのための、美術スクールや絵画教室に通ったりはしなかったのですか?

奥原:田舎でしたのでそういうものがなく、小さいころは通っていななかったですね。高校に入学し、美術部に入部し木炭と鉛筆で石膏デッサンをしました。市内の画家のおじいさんがやっていた画塾があるのを知り、油絵を習いはじめました。そのうちに美大への進学を考えると予備校へ通わないといけないと思い、高校の先生に相談し紹介してもらった、少し離れたところにある受験用の予備校へ行きました。また、昔から童話の中に出てくるモノクロの挿絵が好きで、その挿絵を見ながら自分でカラーに変えて描いて遊んでいました。

●たとえば、どなたの?

奥原:ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』、当時の単行本の挿絵はエッチングのような細かい線の挿絵だったのですが、モニクロで描き込まれた少し暗い雰囲気のその絵がとても好きでした。そのカラーの世界を想像して描ていたのです。ティム・バートン監督の『チャーリーとチョコレート工場』の映画を観たときには、子どものときにイメージしたものが!と悔しかったです(笑)。あとは、魔女を描くのも好きでしたね。頭のなかはファンタジーだったような気がします。

●美術の短大に入ろうと思ったのはいつ頃ですか?

奥原:高校2年生の頃です。それまでずっと将来は保母さんになりたいと言っていましたが、ピアノがあまり好きではなく、レッスンもさぼってばかり。絵を習いはじめてようやく美術に進もうと思ったのです。

●親御さんから、美大に行って何になるの? と言われなかったですか?

奥原:あまり言われなかったですね。バイトをして画塾に通ったり、奨学金を借りて短大に行きましたので、何も言わずに応援してくれました。

●短大に入った頃にはもう、イラストレーターという職業があるのをわかっていたのですか?

奥原:じつはよくわかっていませんでした(笑)。ただ、グラフィックデザインのコースでしたので、課題で「雑誌の表紙のデザイン」などのテーマが出ると、必ずイラストを中心のデザインになっていました。やっぱり絵を描く方が好きなんだなと思いました。あるとき、二点透視図法で立体を描く課題が出て、立体の面に着色をするのを忘れてしまったことがあったのです。そこでたまたま持っていたチラシをその面に合わせて切ってのりで貼ったのですが、そこにその立体とは違う形が現れて爐海譴呂もしろい!″ と思ったのがきっかけで、コラージュを始めたのです。それからずっとコラージュをしていることになります。

●では、その課題をやっていっていたら、今に至らなかった!?

奥原:はい。そうですね(笑)。

会社員と制作する日々
公募展に出し続ける

●セツ・モードセミナーに通ったのは、短大とダブルスクールですか?

奥原:短大とのダブルスクールではないです。短大を卒業したあとは、フジテレビ系列の番組やイベントの美術制作会社に就職をしました。事務職です。当時その会社のすぐ裏にセツがあったのです。あまり向いていない仕事でしたので、6時くらいに仕事が終わるとすぐにセツ夜部に通っていました。会社には4年半勤めたのですが、その間、ザ・チョイス(※)にコツコツ出しながら、イラストレーターになりたい、という思いをずっともってました。
(※)ザ・チョイス:雑誌『イラストレーション』主催の公募展。イラストレーターの登竜門。
通称、チョイス。

●会社からいったん家に帰って、ご飯を食べて、延々に描き続ける、その日々ですか?

奥原:はい。作品もですが、勤めていた会社はドラマなどの番組の美術制作をしており、ドラマの中に出てくるニセモノの広告などの絵を描くようになりました。たとえば、ドラマの中の市役所の壁に貼るポスターや、新幹線の車内販売のお弁当のパッケージ、指名手配の似顔絵、缶詰や日本酒のラベルの絵、小学生の夏休みの宿題の絵、頼まれるとなんでも描いていました。外注するまでもないものを、あの子ちょっと描けるみたいと噂になって。事務職でしたが、絵がテレビに映るのは嬉しかったので、家に帰ってから一生懸命描いていました。古畑任三郎が事件の鍵を握るお弁当に気付くシーンがあったり、踊る大捜査線の湾岸署に運ばれてくるカエル急便の段ボールの絵だったり、ほんとに面白かったです。

●番組のクレジットに、名前は出てこない?

奥原:出ないですね。とくにお金ももらえなかったですね(笑)。

ザ・チョイスの入賞で、チャンスをつかんだ!

●チョイスは何回目くらいで入賞したのですか?

奥原:10回くらいかな。2年間くらいはずっと出し続けていました。徐々に、一次通過のところに名前が出るようになっていって。そのうち2回入選して、年間の賞で優秀賞ももらいました。

●選者が毎回変わります。なにか、コツがあったのですか?

奥原:審査員の傾向と対策は考えられないタイプだったので(笑)、とにかく毎回5点ずつ描いて出していました。山下清さんみたいに前面をコラージュにしていたのですが、あるとき、背景を省いて人物だけを切り抜き並べたコラージュを出したら入選しました。今思えば、イラストレーションって文字がのせられないものよりも、ちょっとヌケがあったほうが使いやすいですよね。それから、広告の仕事がきたのです。東京シティ競馬の広告でした。スタート前の6頭並んだ馬の顔をコラージュで作りました。ギャランティは18万円だったと思います。

●それは、チョイスで賞をとったあとに、電話がかかってきたとか?

奥原:はい。連絡がきました。それでちょっと勘違いして、私イケル! と思って(笑)。

●その広告は、大手広告代理店経由の仕事だったのですか? 

奥原:アートディレクターさんは覚えています。

●そのかたからの仕事だったのですか? 

奥原:はい。水谷孝次さんという方です。

●今、子どもたちのプロジェクトで、ボランティア的なことをやっている有名なかたですね。では、けっこう大きな仕事ですね。

奥原:そうですね。電車の中吊り広告でしたので、会社の方も、あれっ!奥原の? と気が付いてました。

●どの時点で会社を辞められたのですか?

奥原:チョイスに入賞したあと仕事がいくつか来て、半年くらい経ってからです。それからコンスタントに仕事がきたわけではないのですけれど、少し貯金も貯めていたのでなんとか生活していきました。

●会社を辞めて、完全にフリーになる、というその覚悟みたいなのはありましたか? 

奥原:会社員のときに、すごくストレスがたまっていて、辞めたあとの開放感の方が大きかったですね。もう一日中、ずっと絵が描けるんだ、って。

いかに作品を露出し見てもらうか
クライアントに出会う大切なポイント

●フリーとしての日々が始まるわけですけれど、やっぱり描くのを続ける日々ですか?

奥原:はい。フリーになる少し前ですが、会社員のときに賞をとってそれによって仕事がきた頃に、初めての個展を開きました。表参道の古い同潤会アパートの中にあったギャラリー80というギャラリーです。チョイスに出すために、ずっと描きためていた絵をちゃんと額装して展示をしました。

●個展は自分の意志で行ったのですか?

奥原:はい。あとは、イラストの売り込みにも行きました。月に何軒行く、というのを決めていたような気がしますね。

●そのへんを詳しくおききしたいのですが。どんなスタンスでやってたのでしょうか。たとえば、どんな会社に?

奥原:デザイン会社やアートディレクターさんを調べて。今のようにインターネットですぐに調べてメールで連絡ができる時代ではなかったので、電話をして、アポイントを取って、ファイルを持って直接見てもらいに行きました。

●たとえば、ジャンルとか、どういうところを選んで?

奥原:分析力がないのでどなたでも(笑)。個展をするときには、DMを作って、お会いしたことのない方でも、編集部宛に送ったり、デザイン会社に送ったり、見に来てください、という思いで送りました。

●うちの編集部にもよくきますね。何枚くらい出されたのですか?

奥原:だいたい1000枚印刷して、500枚くらい出しました。来てくれたアートディレクターやデザイナーの方もいました。

●それがきっかけになって仕事になったというのはあるのですか?

奥原:はっきりどのお仕事かは覚えていないのですが、あったと思います。当時は年に2、3回、よく個展を開いていました。グループ展にも声をかけられたら参加していました。

●たとえば、公募展のチョイスの選者で、アートディレクターのかたもたくさんいらっしゃいましたが、そういう人に会いに行くこともしましたか?

奥原:はい、お礼を兼ねて作品を見てもらいに行きました。あと、当時はなにかとファイルを持ち歩いていて、機会があれば見てもらっていました。クセのある絵でしたので、売り込み先で好きではないと言われたり、ボロボロに言われることもありました。面と向かって言われて、泣きながら帰ったことも。でも絵がどんどん変わっていって、10年後に仕事を頂いて、打ち合わせの時に、ずいぶん変わったよね、おしゃれになったね、と言われたこともあります。その方の好みになったのか、わからないのですけれど(笑)。

●厳しい言葉を言われるのは、何度もあると慣れるものですか? それとも一回一回へこみますか?

奥原:そのときは、仕事がくるとうれしいので、いつも前向きでした。今のほうがよっぽど堪えると思います。恐くて行けないかも(笑)。

●厳しいことを言われてたら、どうするのですか。帰りには、気持ちを切り替えるのですか?

奥原:くやしいな、と思うんです。私の場合、この雑誌はかっこいいから絵を載せて欲しい、憧れの雑誌で仕事をしたい、と思ってそこへ売り込みに行くのですが、企画によってイラストって合う合わないってあるじゃないですか。雑誌だけではなく広告でもそう、この企画にはこの絵がいいと。そこが、たまたま違ったりするだけで、合うときはあるかもしれないので。だから、何で使ってもらえないんだろう、と思うこともないんじゃないかな。と、今は思います。

海外への長期旅行がターニングポイントに

●デビューした独立したての頃は、すぐに食べていけましたか? 

奥原:当時は貯金が減っていく不安よりも、せっかくフリーで毎日会社に通うわけでもないのだから、長期旅行に行きたいと思って、3カ月間、旅に出たんです。その頃、100万円くらいあったと思うのですが、ほとんど使ってしまおうと(笑)。

●けっこう大胆ですね。どこに行かれたのですか?

奥原:ヨーロッパを転々とし、その間毎日、旅先で見かけた外国人をスケッチしていました。チラシなど面白いなと思ったいろいろな紙を拾ってはコラージュして。ギャラリーに立ち寄ったら、それを見せてみたり。それまではちょっとドロクサイ絵だったというか、日本人しか描けないというか、視野が狭かったのかな。あまりおしゃれな絵ではなかったのですが、そのスケッチしたことで絵がすごく変わりました。

●すごいことですね。

奥原:おしゃれかどうかはわからないのですが、得意になって帰ってきたんです。やっぱり、ふだん見ている風景と違いますので、たくさん吸収したものがありました。そして、帰ってきて個展をして見てもらい、そこからまた、仕事の幅が広がっていきました。

●いい時間だったのですね。帰ってきてからは、今はこういうの描いています、という売り込みで、アートディレクターに見せたり、そういう営業活動が始まるのですか?

奥原:そうですね。日本人離れした色使いと言われることも増えて。その旅行の前は、ダジャレっぽいイラストを描いていましたので(笑)。自分から行く営業は、緊張して得意じゃないので、見に来てくださいということで、個展をやるんです。雑誌に告知を載せてもらったり、たくさんの方が来てくれるようになりました。

●当時、『イラストレーション』などの雑誌には、取り上げられていたりはしたのでしょうか?

奥原:はい。取材にきてもらっていました。  

●そういうものはやっぱり大きいですね。

奥原:そうですね。

さまざまなタイプの仕事の経験、
つらい時期を通して整ってきた、仕事への気持ち

●広告の仕事と雑誌の仕事とか、あるいは、ページ内のカットと表紙のレギュラーは違うじゃないですか。それぞれのスイッチが変わるとか、そういうのはありますか?

奥原:広告は、求められるものをきちんと伝えないといけないですし、また、修正も多いんですよね。代理店やクライアントからも。だから、楽しいという雰囲気ではなくて、修正にきちんと応えることが大切という気持ちでやっています。雑誌の挿絵は、わりとおまかせされることもあるで、物語と自分の世界に入り混んでいることあります。連載の挿絵は読者の想像のお手伝いのような役割なので雰囲気を描くように、登場人物のキャラターを決めつけない、結末を分からせないように気を付けています。ただ、文芸誌の連載のイラストは、文庫本になったときには入らないので寂しいものはありますね。でも表紙も描かせてもらうことがあるので、書店に並んだ時にはとても嬉しいですね。

●そうはいってもフリーでやっていくというのは、けっこう大変じゃないですか。もうやめたくなったとか、それをどうリカバリーしたのか、克服していったのか、というお話はないですか?

奥原:そうですね、8年くらい前かな、たくさん仕事があって、いつも締め切りに追われているようなときがありました。これはありがたいことなんですけれど、家から出れないほどで、それは精神的にも良くなかったですね。そういうときって、いろいろなことが壊れていきますね。仕事は人に迷惑をかけないために一生懸命やるんですが、私生活と人付き合いと仕事と、いろんなことが上手くいかなくなったように思います。これって健康的ではないですよね。今は両方のバランスをとって、楽しくできるように工夫しています。

●それは、今に至るまで、そういう時期もあったけれど、自分でそれを克服しようとか、なんとかしなければいけない、と思ってそう変えたのですか。それとも自然の流れでそうなったのですか? 

奥原:流れのなかで変わっていったのだと思います。絵を描くことは好きなのですが、仕事においては、なんでも言いなりに描いていては楽しくないですよね。楽しいと思えるくらいがちょうどいいのですが、なかなかコントロールは難しいもので、
仕事がいやになってしまったり。そういうのって絵に出ているのかもしれません。プロですから出ないように努力しますが。たぶん、ほんとうに楽しくその仕事に興味を持ってやっているときって、提案するものも違うしアイディアも次々とたくさん出ますよね。私の場合は、この仕事をしてから20年近くなりますが、いろんなことを経験しながら絵が変わってきました。その時々にさまざまな違う仕事ができているので、まだ波の途中なんじゃないかなと思います。ですから、楽しく続ける工夫はことも大切ですね。

自分から仕掛ける、というよりは
多様性を見つけてもらっているというような

●こういう『シアターガイド』の表紙の絵(ビビッドなコラージュ)から、こういう植物の精緻な絵のタッチへリンクしづらいのですけれど、こういう多面性を持っていらっしゃるのですね。

奥原:私は宮城県の気仙沼出身なのですが、5年前の東日本大震災の後しばらくボランティアで活動もしていました。そのときは意識していなかったのですけれど、以前のような明るい色使いの絵が描けなくなっていたように思います。よく描いていた田舎の景色がひどく変わってしまって、その代わりに手前に咲いている花に励まされて、その花を描き始めしまた。それきっかけで植物を描くようになったのです。今は植物に興味が湧いて育てたり観察して描いているうちに、植物を描く仕事が増えてきました。気持ちの変化が、正直に出てしまうんです。

●それはそれでいいと思います。こういうのはそういう時代のムードを象徴しているようなものでもありますし。まあ逆にそういうのを元気づけるために、明るいものを描くという人もいるんですけれどね。いろいろだと思います。
今はわりとゆるいのがウケていたり、とかあるじゃないですか。今の時代の空気ってこうだな、こういう人がウケているから自分もそういうふうに、などと意識されますか?

奥原:自分の描いている絵の幅のなかで、こっちのタッチのほうがいいですね、とか、色鉛筆で描きましょうかとか、画材を変えることで、ちょっとゆるく見えしたりするので、そういうことはよくしています。ずっとコラージュをやっていながら、線画の仕事がくるようになったのは、コラージュ用に描いた線画のラフの絵を見たアートディレクターさんが、線画もいいので使っていい?と言ってくれて。線画を描き始めて、これもいいなと思って。

●そっちのほうがいいって?(笑)

奥原:仕事をきっかけに見つけてくださって、タッチが増えたような気がします。

●仕事に対して、なくなる、減ってきてあせる、というのはあまりないですか?

奥原:ありますよ。最近の方がそれは強く、ありますね。仕事を抑えているつもりはないのですけれど(笑)。最近は私もよく使いますが、スマホのスタンプみたいな、そういうのが増えていますね。私も描いてみようかな(笑)。仕事の内容は、時代によって変わってきますね。

●変わってきますね。手法も変わる。

奥原:私は今興味を持ってやっていることが、ちょっと時代の逆の方に行っている気がします。数年前から銅版画をはじめて、手間と時間がかかりますけど面白い。

●どんなメディアの変革が起こっても、コアなコンテンツがしっかりしていないかぎりは、売れない、というか、機能だけでは何にも、文化もビジネスも成り立たないんですよね。何を売るかという魅力、それを作っていらっしゃると思うので、どんな状況になっても強いと思います。だから、インフラとか、機械、ハード、ソフト、とかにあまり固執しないほうがいいと思いますけれどね。けっきょく魅力的なものにならなくては、話しにならないんですよね。
最後に、もっとがんばりたいという人へアドバイスをお願いします。

奥原:イラストレーションという仕事はとても幅が広く思えます。絵を描くことは子どもでも描けることですし、またはアートや絵画も。言葉だけでは伝えることのできないことの手段として、とても重要な仕事だと思います。人をハッピーにさせる要素がたくさんあります。雑誌や広告においてのイラストレーションの力って大きいと思います。それだけに夢がありますようね。たとえ、一つか二つしか仕事をしたことがなくても、それを必要としてくれて、依頼をされて描き、報酬があるって、すごいこと。憧れていてまだ仕事をしたことがない時にしたら、それは大事件じゃないですか。その嬉しかった、ありがたいな、という気持ちをずっと大切にして描いていって欲しいと思います。

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